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中井金三は、明治16年に生まれ、昭和44年に没した画家です。 |
生まれは鳥取県東伯郡小鴨村ですが、小学校の頃家族で東京へ転居し
世田谷区の日本中学を卒業しました。
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その後、明治38年、東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)
に入学しました。黒田清輝の指導をうけ、同級生に藤田嗣治、岡本一平
(岡本太郎の父)、池部鈞、田辺至(東京藝術大学元教授)らがいまし
た。
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軽井沢で大貫かの子(岡本太郎の母)に出会い、岡本一平に手紙で報
告した本人でもありました。(興味のある方は、瀬戸内晴美「かの子繚
乱」をお読み下さい。)
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藤田嗣治からの手紙には、金三の絵を「丁寧に親切にかく」と表現し
た文章が残っています。
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東京美術学校を卒業する際、卒業制作が評価され、教員として東京美
術学校に残るよう勧められていましたが、家庭の事情で帰郷することに
なりました。
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その後、鳥取県倉吉市で美術教師としての道を進むことになり、指導
した4名(前田寛治、前田利三、米本一郎、山枡行雄)が東京藝術大学
美術学部に入学しました。
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前田寛治がフランス留学した際には、金三が中心となり学資を募るな
ど、渡仏の援助活動をしました。
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また、地元で文化運動を興し、前田寛治や河本緑石らと「砂丘社」を
結成しました。
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河本緑石は、荻原井泉水の弟子にあたり、山頭火と兄弟弟子の様な関
係にあった俳人です。盛岡農学校の同人誌仲間には宮沢賢治がいます。
緑石の姉が金三の妻です。
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金三は、中央画壇に絵を発表することがなかったため、画家としては
ほとんど知られていません。地元倉吉市では教育者として知られていま
す。
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金三の絵は静物画がほとんどで、画題にはバラの花が多く取り上げら
れています。教師をしながら自宅の庭でバラを栽培し、それを描く事が
金三の生活の中心でした。
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金三は、絵の具の調合による変色を避けるため、成分表を傍らにおい
て絵を描いていました。そのため、時を経ても描いたときの色合いが感
じられます。
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エピソード
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■明治・大正・昭和と生きながら教育者として活躍した金三ですが、画
家としてのおもしろいエピソードが残っています。これらは生徒の方
々よりお聞きしたことです。
*黒板にチョークで円を描き、真ん中に点を書くと、その点からコン
パスで正確に手書きの円をなぞることができた。
*黒板に2本の線を引くと、定規でひいたように、完全に平行になっ
ていた。
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■バラを育てるだけではなく、品種改良や新種の開発まで手がけていた
様です。接ぎ木をしたバラの枝が多数庭に置いてありました。
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■バイオリンを弾くことができ、砂丘社の歌を作曲しています。作詞は
河本緑石です。
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■鳥取県の棒高跳びの当時の県の記録保持者だったそうです。
鉄棒が得意だった様で、自宅の庭には鉄棒がありました。
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